Mag-log in王都神殿――その中心にある《祝福の塔》は、信徒の間での光が最も強く差し込む場所と呼ばれていた。
天に向かってひときわ高くそびえる純白の巨塔は、この国の信仰の象徴であり無垢なる聖女を迎え入れるにふさわしい、穢れなき聖域と。 その威容は、遠くから見ても人々の心を畏敬の念で満たすよう完璧に設計されていた。 しかし、その欺瞞的な美しさが俺の心をさらに深く抉る。だが俺にとっては、そこが妹の命を勝手に奪い殺した奴らの冒涜的な場所としか見えなかった。
塔の壁を彩る細かな彫刻も、陽光を反射して輝く尖塔も、その白さが、嘘と偽善で塗り固められているように感じられ、胸の奥で煮え滾るような怒りが収まらなかった。 信仰の名の下に行われるこの全てが、俺にはただただ汚辱にまみれたものとしか映らない。今日、塔では《新たなる聖女候補》のお披露目式典が行われる。
王都中の貴族や高位聖職者たちが顔を揃え、分不相応な絢爛な衣装で着飾ってる。
彼らの顔には、真の信仰ではなく、計算され尽くした期待と権力への追従が貼り付いている。 広場に集まった街の民たちは、祝福の鐘を仰ぎ見ては盲目的に拍手を送る。 その光景は、まるで巨大な劇場の一幕のようだった。 誰もが己の役割を演じ、作り物の喜びに酔いしれている。だが、俺はそんな表舞台の喧騒から離れ、塔の裏通路の奥に潜んでいた。
ひんやりとした石壁に背を預け、冷たい温度を背中で感じながらただ静かに、これから登場する『聖女』の姿を見つめていた。
周囲のざわめきも、歓声も、俺には耳障りな雑音でしかない。 それらは、俺の復讐の炎を煽る、ただの燃料だった。──クララ=フォンテーヌ。
白銀の生地に、細やかな刺繍が施された贅沢なドレスはまるで月光を縫い合わせたかのように輝いていた。
光を反射して煌めくそれは、まるで光そのものを纏っているかのよう。 ふわふわとした柔らかな髪をなびかせ、一歩一歩祭壇へと歩みを進める彼女は、まさしく『物語の主人公』そのものだ。 その完璧すぎるまでの演出に、俺は吐き気を覚える。 計算し尽くされた仕草に瞳の輝き、全てが芝居がかった美しさ。 自信に満ちた笑み。 その瞳は期待に輝き見目麗しく、しかしどこか計算された儚げな声は周囲の者たちの心を鷲掴みにする。 誰もが息を呑むように彼女を見つめ、陶酔にも似た表情を浮かべていた。 まるで、自らの人生の意義を彼女に見出しているかのように。「まるで、夢を見ているようですね……」
「聖女様に一目会えただけで、祝福を受けた気分だ」 「生まれながらに選ばれし者とは、ああいう人を言うのだろう」民衆の呟きが、気味が悪いほど【揃っていた】。
まるで用意された台詞を棒読みしているかのように、一糸乱れぬ賛美の言葉が塔の周囲にこだまする。 その薄っぺらい称賛の波が、俺の妹の純粋さを踏み躙るようで不快感が全身を巡った。 リリスの真の奇跡を知る俺には、その全てが醜悪な模倣にしか映らない。 クララが歩くたびに、神殿の中にあるはずのない、色とりどりの花が舞った。 どこからともなく、微かな風に乗って空中に広がり、まるで彼女の歩みに合わせて咲き誇るかのようだ。 それは奇跡ではなく、ただの『仕掛け』だ。 人工的な香りが鼻腔をくすぐり、視覚を惑わす。 祭壇へと続く階段の途中で、騎士がたまたまよろけてクララを受け止める。 その瞬間、騎士がクララに笑いかけながら何かをしゃべっているが――その騎士は、嘗てリリスに冷淡な態度を取っていた男であることを、俺は知っている。 それもまた、作り物めいた劇の一幕、吐き気を催すほどの偽善だ。 そして、祝福の鐘が、彼女が祭壇の中央に立った瞬間だけ、ひときわ美しく高らかに鳴り響いた。 その全てが、あまりにも出来すぎている。 あまりにも不自然だ。偶然だと言うなら、どれだけ重なれば【作為】になる?
これほど露骨な演出が、どうして通用する? 誰も、そこに疑いを抱かないのか?「これは……作られた『|奇跡《まがいもの》』だ。神殿の、いや、王家が仕組んだ醜悪な茶番だ」
誰にも聞こえぬように、唇の奥で呟く。
俺の分析は、疑いようのない確信へと変わっていく。 リリスの奇跡は、もっと静かで、優しく、しかし確実に人々の心を揺さぶるものだった。 こんな薄っぺらい見世物とは、全く違う。違和感がある――いや、違和感しかない。
リリスの純粋な奇跡とは、根本的に異質なものだ。
この舞台はまるで誰かが用意した『台本』の上で動いている。 それも、ずさんで安っぽい、子供騙しの台本だ。 だが、周囲の愚かな民衆は誰も疑問を抱かない。 『奇跡』という都合の良い言葉がすべてを正当化し、人々の目を曇らせる。 彼らの無知と盲信が、この欺瞞を許しているのだ。 真実よりも、心地よい虚構を求めている――その事実が、俺の怒りをさらに深くする。「ふふっ、これって……まるで、あのシーン通りじゃない?」
その声が聞こえた。ひときわ響く鐘の音と民衆の熱狂に紛れて、しかし俺の耳には鮮明に届いた。
その言葉は、まるで周囲の音の全てを切り裂くように、俺の鼓膜に焼き付いた。 思わず顔を上げた。 少し離れた柱の陰、式典の合間にクララがふと漏らしたその言葉は、誰にも向けられたものではなかった。 彼女は恍惚とした表情で、自らの手のひらを眺めていた。独り言……にもかかわらず、俺にはそれが雷鳴のように響いた。
全身を貫くような、戦慄を覚える言葉。
この世界の根幹を揺るがしかねない、禁断の響き。──あのシーン。
何の【シーン】だ?
まるで、自分がすでに知っている展開をなぞっているような言い回し。 未来を、この世界の出来事を、前もって知っていて当然のような口ぶり。 そして、その表情はどこか陶酔していた。「世界の中心にいる」事を、まるで確信しているような醜悪なまでの自惚れに満ちている。 その瞳には、この世界が自分を中心に回っている――そのような傲慢なまでの優越感が宿っている。ぞわり、と背筋を悪寒が走る。
それは冷たい蛇が這い上がるような不快感だった。
俺の騎士としての経験が、目の前の現象が、常識ではありえないことを告げていた。この女は――【物語】を演じている。
しかも、ただの演技じゃない。
これは、自分の記憶通りに進んでいることを確認して喜んでいる表情だ。 彼女にとって、この世界は、ただの舞台装置に過ぎないのだ。 彼女の記憶の中の物語を、忠実に再現する舞台。……どういうことだ。まさか、本当に……この世界の出来事を、前もって知っていたとでも?
あの改ざんされた記録、妹の存在の抹消――全てが繋がり始める。
文書課で目にした、改ざんされた記録が脳裏をよぎる。 リリスの存在が抹消され、クララが“代役”として台本にねじ込まれた事実。 その全てが、今、一つの醜い真実へと収斂していく。 その【筋書き】を、彼女は知っていた。 最初から。まるでゲームの攻略本を片手に、この世界を弄ぶかのように。 俺の妹の命すら、彼女の【物語】の邪魔な駒としか見ていなかったのだろう。 俺が知らないうちに、この世界はすでに【書き換えられていた】と言う事なのだろうか? 妹が殺され、その命が意味を失ったことすら、彼女にとっては【物語】の一部だったのかもしれない。 彼女の描く【ハッピーエンド】のために全てが都合よく配置された、ただの背景に過ぎないのだ。 冷たいものが背中を伝わる――それは恐怖ではなく、怒りでもない。 いや、もはや、俺自身の感情ですらなかった。聖女クララは、【敵】だ。
俺の妹を奪い、その存在を消し、その場所に平然と座っている『|聖女《にせもの》』
この世界を、自分の思い通りに『なぞる』ように歩いている異物。
その異物こそが、俺が滅ぼすべき、絶対的な悪なのだ。「……クララ=フォンテーヌ。お前は、俺の妹を奪った。その代償、高くつくぞ。お前の全てを……この俺が奪い尽くしてやる」
唇の端が、冷酷な笑みを歪ませる。
だが、それは【ヨシュア】としての笑みではない。 その顔は、氷のように冷たく、しかし瞳の奥には、業火のような復讐の炎が宿っていた。風が吹いている。乾いた石と、草の匂いが混じった風だ。 嘗ては【聖女の祈り】が響いていた神殿跡。今では廃墟となり、祈りを捧げる者も、見上げる民もいない。 けれど――俺は、ここに立っている。 荒れ果てた神殿の階段に腰を下ろし、小さな灯火を手のひらに灯す。 それは、リリスが生前に使っていた祈祷具。割れていた欠片を修復し、こうして時折、火を灯している。 ――あれから幾年が過ぎただろう。 王都は再編され、神殿制度は歴史の中に沈んだ。人々はもう【聖女】という言葉を口にすることも少なくなった。 それでも、世界は回り続けている。 誰かが失われ、誰かが傷つき、それでも生きていく――それが、祈りを捨てたあとの、この世界だ。「……戻ってきたのか?」 背後から、聞き慣れた声がした。 振り返ると、黒衣の男――ルーカスが立っていた。 以前と変わらぬ鋭い目。けれど、どこか柔らかさを纏っている。「懐かしい場所だろう」「……ああ。だけど、少し寂しいな」 彼は俺の隣に腰を下ろす。 そして手を伸ばし、俺の手のひらの祈祷具に触れる。「リリスがいたら、何て言っただろうな」「「ようやく、肩の荷がおりたのではないですか?」って、笑うんじゃないか?」「……それ、結構的確かもな」 そのように会話をした後、俺とルーカスは、ふっと笑う。 この静かな時間が、いつまでも続くとは思っていない。 俺たちは罪を背負った。許し合ったわけでもない。ただ――手を取り合って、前へと歩き出しただけだ。「っ……」 ふと、体がふらついてしまい、それをルーカスが支える。 体を支えられたことに少し安心感を覚えながら、ルーカスに目を向けると、変わらない顔をしているのだが何処か心配そうな顔をしているのもわかった。 あと、どのぐらい生きていられるのであろう? 数
数日後――王都を、離れる日が来た。 聖女制度が崩れ、神殿は政から手を引いた。 民は混乱しながらも、新たな時代に踏み出そうとしている。それでも、俺の中には何一つ「終わった」と思えるものはなかった。 もう、二度と大切な妹のリリスは戻ってこない。 復讐は果たした。けれど、それで心が癒えるわけではない。 俺は、妹の名を守った。そのために仮面をかぶり、偽りを纏い、多くの人を騙した。 それでも――誰よりも、俺が偽りだった。 神殿を出ると、通りには人が集まっていた。 嘗てアリスと呼ばれた【聖女】の最後の姿を見送ろうとする者たち。 中には、涙を浮かべて頭を下げる者もいた。 しかし、それを見ても俺は何も感じる事が出来ない――皮肉だ。 俺は聖女でもなんでもない。 ただ、|妹《リリス》を殺したこの国を許せなかった、怒りと執念の化け物だ。 それでも人々は、俺の祈りに救われたと言ってくる。 ……リリスなら、どうしただろうな。 リリスなら、きっと――笑って許したかもしれない。優しい子だったから。 門を抜ける――この道をまっすぐ進めば、都を出て遠く離れた地へと辿り着く。 もう戻るつもりはない。 この国の中で、これ以上生きていけるとは思えない。 それに、体が限界だった。 無理やり作ったこの体は、長く持つ事はない。 いつかは崩れ、滅びるかもしれない――禁術を使った為、どうせあと数年の命なのだとわかっていた。 微かに感じる痛みに耐えながらも、俺は進む。 ――これから俺は、何をしていけばいいのだろう、と願いながら。 ふと、背後で。重たい扉の音とともに誰かが駆け出してくる気配があった。 振り返ると、そこに――ルーカスがいた。 黒衣のまま、息を切らして、手を伸ばしている。「ヨシュア……!」 俺は足を止めた。 それでも、何も言わなかった。 この男に、今さらか
夜が、白み始めていた。 窓の向こう、空はまだ暗い。だが、確かに朝の気配が混じっている。俺は静かに身を起こし、ベッドから離れた。 体のあちこちに、まだ熱が残っている。それが何によるものか――考えるまでもなかった。 ルーカスは、眠っていない――横たわったまま、天井を見つめている。そのシャツはきちんと着られておらず喉元がわずかに露わになっている。 俺は何も言わず、上着を手に取った。「……」 この部屋に、これ以上いる理由はない。 いや――本当は、理由はある。ただ、それを選べないだけだ。 扉に手をかけた、その瞬間。「……行くのか」 背後から、ルーカスの声がしたが、俺は返事をしないまま、俺は外へ出た。 離宮の回廊を抜けると、雨が降っている――夜明け前の、冷たい雨。 すぐに、服が濡れる。それでも構わず、俺は立ち尽くした。 頭の中が、空っぽだった。 祈りも、怒りも、復讐も――すべて一度、終わってしまったような感覚。 その背後で、足音がする。 振り返る前に、肩に何かがかけられた。タオルだ。まだ、温かい。「風邪を引くぞ?」「……」 ルーカスは、雨の中に立っており、彼もまたシャツが乱れたままだ。 その姿を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。 俺は、唇を噛みしめて言った。「……俺は、お前を許すことが出来ない」 声は、震えていなかった。「きっと、これからもだ。俺はお前を憎む……間違いなく、これからだ」 ルーカスの目が、わずかに揺れる。「俺の大事な妹を殺したのは……お前だからだ」 雨音が、その言葉を飲み込む。 しばらくの沈黙のあと、ルーカスは静かに頷いた。「……ああ、それでいい」 ルーカスは、静
ルーカスの指が、俺の背を撫でている。熱を帯びたその手のひらが、肩から腰へとゆっくりと滑っていく。どこにも急ぎはなく、ただ、俺が逃げ出す気配を探るように――優しく、慎重に。 俺はもう動けなかった。 殺すことも、拒むことも。そして、離れることも。「――ヨシュア」 名前を呼ばれるだけで、胸の奥が震える。 妹を殺した男のくせに。それでも俺は、こいつの声が――たまらなく欲しい。「……触れろよ」 呟いた俺の言葉に、ルーカスの手がわずかに震える。それでもすぐに、彼の指先が俺の頬をそっと撫で、唇に触れた。 ぬるいキスだった。火傷のように熱くも、獣のように荒々しくもない。 ただ、誰よりも俺の輪郭を知っている手付きで、俺の唇を奪ってくる。 深く、舌を絡めながら、喉の奥まで侵食されていく。絡み合う唾液と舌の音が、静かな室内に淫らに響いた。「……んっ、ぁ……く、っ」 息も声も、何もかも全てルーカスに支配されていく。 気づけば俺の身体は完全に晒され、下肢すら、彼の手の中でゆっくりと扱かれていた。「……反応してる」 ルーカスがくぐもった声でそう言い、俺の首筋に舌を這わせた。 その声が――悔しいほどに優しくて、息が詰まった。「殺したいくらい、憎んでるくせに。お前の身体は、俺に抗えない」「……っ!」 そう言いながらも、下腹部に走る快楽には抗えなかった。 弄ばれるように扱かれるたびに、腰が無意識に跳ね、吐息が荒くなり、声が漏れる。「ふ、ぁ……や、ぁ……っ」「喘ぐ声が、可愛い」「……くそっ……さ、さいてー……」 それでも、俺はルーカスを許してしまう。 触れられるたびに、心の
俺は喉元に食らいつくように噛みついた。 噛みつくと同時にルーカスの血の味が、わずかに口の中に広がる。 鉄の味、これは生きている証で生々しさ。 それでも、奴はまるで痛みすら快楽に変換しているかのように俺の背中に手を回してくる。「……っ、なんで……こんな……っ」 俺の声は震えている。怒りか、悲しみか、欲望か。 そのどれもが、もう混ざり合っていてわからないまま、ルーカスはゆっくりと、唇を俺の耳元に寄せる。「お前が俺を憎んで、同時に欲しているのが分かる。ヨシュア……そのままでいい。お前がそのまま俺を受け入れられなくても……身体は嘘をつけないだろう?」「だ、黙れ……黙れ……っ!」 拒絶の言葉とは裏腹に、体の奥が熱くなっているのを俺でも感じていた。 憎しみに塗れながらも、どこかでこの男を――否、ルーカスを欲しているのがわかる。 信じようとしていた目の前の男を、今はリリスの仇でもある存在だ。噛みついて殺してやろうと思っていたのに、そんな事を拒否している自分自身がいる。 こんなの、俺ではない。 そのままルーカスは喉元を舐められ、噛まれ、舌でゆっくりと愛撫されていく。その行為がまるで罰のようで、同時に少しだけ救いのようでもあった。「やめろ……やめてくれ……」「やめないさ……もう、お前も戻れない。リリスを想い、俺を憎み、それでも――」 唇が重なる。深く、貪るように。舌を絡められ、口内を蹂躙される。 息すら奪われるほどの熱に、抗う気力はもう残っていなかった。 ルーカスの手が、俺の上着を丁寧に、だが容赦なく脱がせていく。火傷の跡がある俺の肌に、彼の手が触れるたび、かすかな痺れが走る。 それでも彼は、その痕にさえも優しく口づけていった。「その傷が
沈黙は、一拍。いや、正確には【間】だったのかもしれない。 ルーカスは静かに何かを考えるようにしたあと、ようやくこちらを見た。驚きも、動揺もない。ただ、静かな目で。「……そうだと言ったら、お前はどうする?」「っ!!」 それはあまりにも、あっさりとした肯定だった。ただ、驚く事しかできない。 ルーカスは静かに笑いながら話を始める。「この国は、腐っていた。神殿も、王族も、民衆も……すでに正義では回らなくなっていた」 グラスを置く音が、乾いている。「君の妹、リリスはそれを許せなかった。正しくあろうとしすぎた。清らかで、まっすぐで……」 そこで、わずかに言葉を切る。「――だからこそ、邪魔だった」 胸の奥で、何かが軋んだ。 思い出す。あの日、リリスがメモに残していたもの。 ――セドリックは、聖女を信じていない。 ――あの人の言葉には、いつも底が見えない。 ――私が私であるうちに、本当の神に祈りたい。 ――兄さま、ごめんなさい。 リリスは気づいていたんだ、ルーカスの計画に。 しかし、ルーカスの目的はユディスを王様にするのではなく、全てを滅ぼすために。 それに、リリスは気づいてしまったからこそ、止めようとしたんだ。「説得しようとしたんだろう。止めようとした……だから、消した」 ルーカスの声には、後悔はない。 あるのは、結果を受け入れた者の覚悟だけだった。「実行したのはカイ……俺の従者だよ。命令で彼が刺して、落とした。事故に見せかけてな」 その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中で、何かが切れた。 気づいた時には、俺は短剣を抜いていた。刃先は、まっすぐルーカスの喉元を向いている。 殺せる距離、殺す理由。十分すぎるほど、揃っている。 それでも――ルーカスは、動かな
祭壇の間に残された余韻は、どこか現実味に欠けている。 それは熱狂の残り香であり、祝福のかたちをした虚無――人々が自らの手で作り上げ、信仰と歓喜を重ねて燃やした偶像の最後の熱のようなものだった。 ルーカス=アルヴィンは、その終わりの光景を誰よりも静かに見届けていた。式典が終わった後もなお、一人玉座の間を見下ろす席に腰掛け、沈黙の中で目を閉じている。 拍手も、讃美の声も、消えた。 だが、彼の脳裏にはまだ、一つの影が焼き付いて離れなかった。 ――あの【少女】。 現れたばかりの、聖女候補。アリスと名乗っ
夜の帳が落ちた神殿は、昼とはまるで違う顔を見せる。 陽光に満ち、祈りの声が高く響いていたはずの聖域は闇に包まれた途端、まるで何かが息を潜めるような静けさをまとい始める。 昼の神聖は白々しくすら思える。まるで、光がその欺瞞を隠していたかのように。 闇に沈んだ聖堂は、神の居場所などではなくなり、ただ石と装飾でできた冷たい箱と化す。華やかだった天蓋の装飾も月の光の下では虚飾にすぎない。光が届かぬ奥には祈りすら遠のき沈黙だけが残されている。 まるで隠された罪が、沈黙の奥で微かに息をしているかのように。 そんな中、俺は一人与えられた私室の寝台で目を開けていた。 微睡みなど、許されない――
王都神殿──その中心にある《聖女の間》。 純白の大理石で築かれたその空間は、天蓋から差し込む光すら計算されたように神々しく、神の栄光を象徴する場として完璧に整えられていた。 床には精緻なモザイク、壁には歴代の聖女たちの肖像画。本来ならば、神に選ばれた少女ただ一人が玉座に座し、民の祈りを一身に受けるための場所だ。 ――だが、その欺瞞的な美しさが、俺の胸を静かに抉った。 嘗て聖女が祈りを捧げ、人々が膝を折ったこの場所は、いまやただの装飾だ。妹の血で汚されたこの空間を、俺はもはや神聖とは思わない。完璧な造形も、神を讃える歌声も、全てよく出来た舞台装置に過ぎない。 そして今日、その舞台に
誰かが息を潜めて眠っているような夜に、俺は動き出す。 漆黒の闇が王都を覆い、遠く霞む灯りだけが、その存在をかろうじて示している。 北の外れ、古びた〈白霧の祠〉には、人の営みなど届かない。生活の音も、人々の喧騒も、欲望の気配すらも。 すべてが断絶されたこの場所には、【静寂】そのものが支配する空気が淀んでいた。 風に揺れる枯れ草すら、この場所では不気味な音を立てる。 ここは、古く捨てられた神殿。 嘗ては聖なる祈りが捧げられていたのかもしれない。 だが今は、誰も祈らず、朽ち果てた石壁に苔が根を張り、空気は死んだ香りを孕んでおり、崩れかけた天井から差し込む月明かりが塵と瓦礫に奇妙